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ほぉっておいても大丈夫(仮)

風呂が沸くまでのあいだに書く何か

3日坊主と定休日

          適当にポケモンGOをする感覚でやるブログ

昨日のブログの更新ですが、帰宅後スグ寝てしまったのでお休みしました。

毎日投稿するのを目標にしましたが、いきなり5日目で挫折。でもまぁまた投稿したくなったので書いています。ブログのタイトルをテーマに自律とか自由とかなんて、むつかしいことを考えだしたので煮詰まったんだと思います。

 

ブログは...そうですね、思考の軌跡ではあると思うので目標は毎日投稿ですが、疲れたら休もうとは思います。定休日=日曜、不定休もありみたいな。

京都の楽天堂という豆屋の方が「3日坊主でいいじゃないか。まずはやってみよう。」というようなことをおっしゃってました。つまり、思いついたらやってみて、無理そうだと思ったらやめたらいいというような趣旨です。朝令暮改と言い換えてもいいと思います。やると言った手前やめる訳にはいかないという、頑固な部分は自分も持っていると思いますが、その辺もう少し柔軟でもいいかもしれません。

 

それと、「不真面目でも毎日続けられること」をやったらいいよということを、また伝いですが聞きました。頑張って真面目にきっちりやるのを続けようとすると、それは真摯で清廉な感じがしますが、やっぱり疲れてしまうのです。

最近思ったのは、ポケモンGOをなんだかんだで続けてて、テキトーに遊んでるけど面白いなって思えている自分です笑。リリース当初は多数のユーザーが一気に開始して、いろんなニュースになってましたけど、半年以上経った今、周りでは結構辞めている人が多いし、話題も少なくはなっている。ぼくは開始当初はやっていなくて、秋くらいにやり始めたんですけど、図鑑完成もバトルもしなくて、ちょっとの間無心になれる”遊び”として利用していていい感じです。たまに好きなポケモンが出現したら、テンション上がりますけどね笑。

このブログもそんな気持ちでいようと思いました。GO。

             村上春樹にはなれない自分

毎日真面目に続ける。ストイックな生活には憧れはあります。

内田樹さんと名越康文さんのネットラジオ「辺境ラジオ」で、村上春樹さんが毎日判を押したような生活をしていると話題にしてました。具体的には、早朝に起きて仕事をし、机にむかうと決めた時間は筆が進んでも進まなくても齧りつくそうです。そしてある時間になったらピタっとやめる。仕事が終わると好きなことをするそうです。(走ったり、音楽聴いたり、酒を飲んだり。)

作家の仕事というと、アイデアが浮かばなかったら、遊んでいて、浮かぶと机に向かう自由業のようなイメージかもしれません。締め切り前は徹夜する漫画家とか、ね。でもそうではなくて、真のクリエイティビティは「同じ生活の連続」の中にあるそうです。そのほうが微細な変化に気づくようになるみたいで。まぁ、それも人それぞれなんでしょうけど、少なくともぼくは、締切がないとできないタイプだと思っています。

そして、できないことに対してコンプレックスがあるような気がします。できてもできなくても、できそうなときにやればいいんじゃないかと思ってきました。そう考えると働きながら6年以上週一でバーを開いていたときは、不真面目でしたね。毎週ニコニコしながら、いやな気分になっていました。でも、なんとなくやめれなかった。面白いからです。そして、お客さんが来てくれるので、「やれやれ」と重い腰をあげる店主もなかなかいいんじゃないかと思いませんか?

村上春樹の仕事に関しては、本として読んでないですけど、こんなんでてましたね。

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

このブログのタイトル(仮)について(その3)

ほっておいても大丈夫だよと言えるようになるために

昨日の文章は、陰キャの要素がひどかったですね(笑)

ブログを書こうと思ったのは、自分の中では明るい材料なのですが、その材料をただ集めただけでは、美味しい料理はできないんですねぇ。文章が一つのお皿(料理)だとすると、その文章が出来上がるまでにはいくつかの工程を経ているワケで、切ったり煮込んだりしていくにつれて、料理人の性質やウデ、そして蓄積がにじみ出てしまうようです。駄々こねたかったんです。鬱々とした、言葉にならないことばを少し書きなぐりたかったんですね。過去の出来事は変えられないにしても。

 

さて、大事なのは進行形の出来事です。

 

今年(2017年)の3月3日、ふと思い立ってなんとなく神戸の元町映画館でやっていた”【電子書籍Kidle入門】3ヶ月後に作家デビューする方法”という講座を受けました。理由は、もともとまぁまぁ読書好きでして、家で本読んでいると、どんどん溜まっていき場所をとってイヤになってたので、たまに電書を利用するようになってました。

Kindleの端末を触って、Amazonのセールを見ているとついついクリックしてしまうじゃないですか(笑)。それで毎日"Kindle"に親しんでいると、こんなに手軽に消費できるって、危険な香りはするけど、仕事にもなるんかいなとか思ってしまって。ちょうど例えばきんどうさんのニュースを利用していて、これ(電書)ってお金を稼ぐこともできるんじゃないか、と思ってしまったんです。でも、自分は情報をまとめて整理し、継続的に発信するのは続かないなと思っていたので、文章書いたり、編集したりすれば行けるんじゃないかというあいまいなイメージを浮かべていたときに、たまたま元町映画館のニュースに講座が上がっていたので、これは!!と思って申し込みました。

 

受けた感想は...まぁ自分の現状の能力や実績では作家デビューはまだまだ先になりそうですといったところですが、それでも何か掴んだ気がしてしまって、講座の講師の方に感想とレポートをメールで送りました。

レポートの内容は、自分のぎこちない感情とこれからどうするかといったものでした。(ブログを書くぞと宣言もしました。)それで、文章教室の講師もしてらっしゃるその方から返信をいただいたのですが、その中に「この人は【ほっといても大丈夫】と感じました。」という文字列を見つけまして、救われた気持ちになったのです。

あぁ、自分が久しく見つけたかったもの、理想的な状態が、「ほっといても大丈夫」なようになることなんだと。なんと勝手な子どもみたいなワガママさなのかもしれませんが、そう誰かに、素直に、説得力をもって言えるようになれたら、問題なかろうというところです。

「ほっておいてよ!」ではなく「ほっておいても大丈夫」と言えれば。

つづく

このブログのタイトル(仮)について(その2)

ほっておかれることへの意志

昨日の記事で、『城』の文章をやや強引に引用してみましたが、ここ一年くらい、ほっておかれたいという欲求をずっと感じていました。体調が思わしくないと、周りの人は心配してくれます。

 

例えば、家族。父親は喋ることがあまり得意でないのですが、よくぼくの心配をしてくれるとき「ご飯食べてるのか?」ということを言ってくれます。

毎回そのことを言われているので、いいかんげんうんざりしてしまいますが、心配してくれることは伝わってきます。それに対して、「別に食べているって。」とつっけんどんに答え、気持ちでは心配してくれていることをわかっていますが、なんとも言えない空気になっていました。父親父親で気持ちが行動についていかないようで、結局夕食をごちそうになって、無言で帰ってしまうことがよくありました。(ひどいですね。)

 

また、同棲していた彼女は、できるだけ一緒にご飯を食べようと言ってくれて、それは大変ありがたかったのですが、どうにも回復せず時間だけが経ってゆき、そのことがだんだん苦痛になっていました。しまいには、一緒にご飯を食べても仕方がないと思うようにさえなってしまいました。

「一緒に食事をする」という行為は単に栄養を摂取する意味以上に、多分にコミュニケーションの意義を含みます。調子のいいとき悪いとき、いつでもたいていご飯を食べますが、そこに意味をもたせようとすると、その場を楽しめないと、虚しくなってしまって、食事自体が苦痛になっていました。食べることを極端に制限していたこともあります。

ある日彼女に「ほっておいてほしい!」ときっぱり言ったのですが、彼女はほっておいてくれるようで、やはりほっておいてくれなくて、「食べものを食べない!」と言っているにも関わらず、何かくれようとしたり、それが余計に辛かったです。

うーん、なんだか昔の愚痴のようになってしまいました。すみません。

 

全く誰にも相手をされない自由さは、寂しさと隣り合わせだと思いますが、ぼくはやはり「ほおっておいて」ほしかった。

少し話が飛躍しますが、自律なんだと思います。「ほっとかれた状態」で一人でバランスを取れることが必要だと思います。人は一人の力では生きられませんが、逆に一人でしか生きられないし死ねないです。

一人で生きて、一人で死ぬ。

 全く誰にも相手をされたいわけではないけど、「ほっとかれて」自律して生きてゆくこと。それがパワーワードなのかなと思っています。

つづく。

このブログのタイトル(仮)について(その1)

少し前に友人とお茶した時に、最近何の本読んでる?という話になりました。

ぼくはまんがをよく読んでいて、石黒正数の『それでも町は廻っている』の最終巻が出たんだよって話をしようとしたけれども、通じないので、少し背伸びしてカフカの『城』を読んでると答えました。(友人は今さらながら、『進撃の巨人』にハマっていると言っていましたが、これはぼくが読んでないのであまり盛り上がらなかったね。それよりも、まんが読むの目当てで定食屋へ行くという行為の自体、尊いよねって、ことで共感できました。)

 

実際、カフカさんを昼休みに読んでいました。でも、カフカの文章は昼休みに読むにはちょっと重いんですよね。職場の休憩室で、周りが例えばポケモンGOの話をしている中で黙々と『城』を読んでいると、とてもじゃないけど集中できないです。友人は笑っていました。

『城』は大学の頃に一度チャレンジして挫折し、20代後半に読んだけどまた途中でやめて、三度目の正直に挑戦中。いまだラストにたどり着けずですが、もう3分の1くらいまで読んだのでなんとか読了しそうです。

今のところ、Kが初めて入った酒場でカウンターに潜り込んで、そこにあった娘の足に欲情していつの間にか付き合っているような健全さを持ってる正しい文学な気がしています。

 

さて、なんで『城』のことを書いたかというと、このブログのタイトル「ほぉっておいても大丈夫(仮)」について書こうとしたからです。

「もうほっといてよ!」とは反抗期の子どもが親によく言いそうな台詞ですが、ぼくは「ほっとかれること」について、もう少しマジメに考えてもいいような気がしています。人は誰でもほっとかれたい部分があると思うのだけど、ほっとかれる=自由になるという単純な読みは危険な気がします。もう風呂が沸いたので次の『城』の文章の引用をヒキに使って明日につづくよ。

この自由、こうやって待っていること、こういうふうに他人から傷つけられないでいること、それくらい無意味で絶望的なことはないようにも思われるのだった。

 

※今日の昼休みは『ゲーマーズ!』というライトノベルを読んだら楽しかったので、今後『城』は別の場所で読もうと思っています。

このブログについて

 おまたせです。誰も待ってないかもしれませんが、自分はずっと待ってました。

京都で6年くらいホテルの一角をoccupy(占拠)してOKABARというのをやっていましたが、閉めて、仕事も辞めて、出身の神戸に帰って、そのまま勢いで淡路島に移住。しかし、馴染めず挫折して、戻ってきてクサクサしてました。

ここ2年くらい、何も入ってきませんでした。好きだった映画や、いつも聴いていた音楽、習慣にしていた料理、大切にしてた読書、遊んでいた友人たち、そして考える事。何をやっても、虚しくなっていました。いつのまにか日々が投げやりでどうでもよくなってしまいましたが、最近半年くらい、「なんとかなりそうだぞ」と思える日が増えてきました。通っている病院の心理の先生に”書くこと"を勧められて、ノートに絵やことばを書いていましたが、ちょっとは発信したほうがおもしろいかなぁと思っていました。

と、いうところで、ブログを始めることにしました。もう少し具体的にはおいおい。

で、何を書くのかもそんなに決めてないんですが、しばらくは日々思ったこと、読んだ本や見たものの感想、たまには食べ物のことも書こうかと思ってます。エッセイ的。

そしてサブタイにあるように、お風呂を沸かしている間の毎日の習慣にしようと思っています。いつまで続くかわかりませんが、毎日投稿を目標にはじまりはじまり~。

 

前やってた店のブログ↓

okabar.exblog.jp