ほぉっておいても大丈夫!

風呂が沸くまでのあいだに書く何か

はっきりした顔の店主

           苦くて(酸っぱくて辛くて)うまい

今日は、6時半に目が覚め、鬱々と本を読んで過ごしました。午前中休みだったので、なんとなく街に出ました。12時すぎ昼食を取ろうと最近よく行く甜密密さんにお邪魔したら、近所の知り合いが2人で来てまして、喋っているので声をかけようかためらってしまいました。やがて読みたい本に夢中なろうとするものの、少し気になりそわそわしてると、向こうから声かけてくれました。ぼくは乾いた笑いを飛ばしました。大学の時分、微妙な関係の知人と学食で近くに居合わせてしまったような空気でしたが、それは自分が感じているだけなのかもしれません。

その後もうまく気分が晴れず、友人から聞いていた1003という古本屋さんに行きました。ちょうど江弘毅さんのイベントが明日あるというので申し込みました。かかっている音楽がディープハウスだったのですが、古本屋でそんな曲が聞けるのは新鮮でした。クラブに行って出店してるお店を冷やかしているような気分になりました。

夜は父と和食店に行き、茶碗蒸しを頼んだらふきやらこごみやらうどやら、入っていて苦かったです。苦いけど(酸っぱいけど、辛いけど)うまいというのは、いいですね。「わたしはこんな苦い味だけど、どうよっ?」て言っているようです。読んでいた本(高田郁『銀二貫』)で火事で顔の半分が焼かれた少女が出てくるのですが、見世物のように揶揄されるのが厭で最初は手拭ぐいで顔を隠してたけど、ある時から手拭ぐいをとって堂々としていたら、何も言われなくなったというのがありました。

ご近所さんも食堂で肩をすくめる自分のことなんて、そんなに気を止めてないのかもしれません。できるだけ、しゃんとしていたいものですね。(これがうまくゆかないから落ち込むのだけど。)

日記風に書いたのは、1003さんで買った目黒孝二『笹塚日記(親子丼篇)』の影響か。ただの日常を淡々と流し続ける姿勢はおもしろいです。

 

笹塚日記 (親子丼篇)

笹塚日記 (親子丼篇)

 

 

あんた誰だ

             神戸電鉄で山越えした

鈴蘭台にある親戚のやっているお寺で、月例の護摩祈祷というのがあります。久しぶりに参加したのですが、おつとめ後、いつも食事の席が設けられます。

食事のお運びの手伝いをした後、ボケてきている親戚のおじさん(80歳を超えているのでおじいさんですね)とひとつの部屋でしばらく一緒に過ごす時間がありました。

彼は、ぼくがまだチビ助だというイメージがあるみたいで、「老けたなぁ。」と言った後「何してるんや?」や「ひとりなんか?」と言った親戚の人の定番の質問を繰り返してきました。やや、気まずくなりはにかんで、いまはひとりで、本屋の仕事をしているが、来月から仕事を変えるということを伝えました。その後具体的な場所や、何をしているかということを次々に質問してきました。それに対して、はっきり答えられない自分がいやになりました。なんだか、騙しているようですが、次の瞬間には忘れているようで、何を言っても気にしないでよさそうでしたが、どうも困った笑顔になってしまいます。

次に話題は、ぼくが誰の息子であるかどうかということになりました。「ケイコねえちゃん(ぼくの祖母・故人)の息子か?」とか「あんた名字なんやったかな?」とか、質問されるたびに答えるのですが、5秒後には忘れているらしく、ループするように同じ質問戻ってきます。そのたびにぼくは「石倉(母の旧姓)の娘の息子です。」とか「祖母の通っていた学校は知らない。」とか答えていました。およそ30回ぐらい同じような問答を繰り返しましたが、結局、彼はぼくが何者なのかわかったのでしょうか。明日には忘れて、また半年後に会ったときにおなじような質問を受けるかもしれません。

小さなとき、親戚の集まりに行ったときに、なんだかわからないけど誰かおじさんと、「何が好き?」とか「何年生?」とか話してたのを思い出しました。その時どきで好きなものが変わっていたし、齢も違いました。バイクに乗せてくれた、謎のおばさんもいました。今思えば親戚ではなく、そこに居合わせた誰か(親戚の知り合いとか)だったのかもしれません。その人が誰やったかなんて、今となってはわかりませんが、バイク上で浴びる風とか、車に囲まれた景色は覚えている気がします。

「あんた誰だ?」って人とまぁなんとなく会話して一緒に何かして、帰ってゆくというのは実はよくあることなのかもしれません。逆に言えば、相手が誰で、自分とどんな関係かということを気にしながら喋ることって、あまりないんじゃないかと思いました。

大叔父は「パズルやね。」と言って笑いました。

3割打者はすごい

       全力で走り続けると疲れるというアタリマエのこと

毎日全力で遊ぶというのをテーマに生きています。ん?いや、全力では、疲れてしまうので、3割くらいの力でできることを続けていくのがテーマかもしれません。とにかく、毎日どっかで休憩してます。”休憩”というとHifi Cafeさんを思い出しますねぇ。

昨日の神戸に遊びに来た友人がもうすぐ店を出すのですが、「(自分の技能の)3割くらいでできるメニューを出したい。」と言っていました。これは日々一生懸命に仕事や勉強を頑張っているとってはふざけたセリフかもしれませんが、ぼくはなんか得心してしまいました。10の力を持っているんだったら、そのポテンシャルを引き出すのが、人生の価値なんだという意見もあるかもしれません。山本有三の『路傍の石』なんか読むと、その方向性ですよね(はるか昔に図書館で借りた記憶しか.....。むしろ青木雄二ナニワ金融道』で、ある地上げ屋がコケて夜逃げし、ヤクザの下働きをしていて、今時分がいる場所は不相応だから臥薪嘗胆抜け出してやる的なノリで『路傍の石』の引用をときどき見返して、鼻息を荒くするシーンが思い出されます。)

ぼくは昔、毎日色んな所に出かけて交流して旅行も行ってお酒も飲んで、という時期がありました。仕事も遊びも全力で、というやつです。不器用なんです。ある本屋の店主が「おかくん全力で遊んのええわぁ!」と言われました。そうか、全力で遊んでるんだなって思って、さらにやる気を出しましたが、やがて疲れてきましたね。一度疲れてやめちゃうと、糸が切れたようにやる気をなくしてグダグダしてました。それで、それっきり...という縁もきっとたくさんあったでしょう。

「30歳超えて楽になった。」といろんな先輩から聞いてたので「30になると楽になるんかぁ、早く30になりたいぜ。」とか思ってましたが、実際は楽にならなかったです。むしろ苦しくなってました。でも、なんとなく思ったのは、楽になるんじゃなくて、楽にしていくもんじゃないかなって感じてます。3割の力で十分なんじゃないかって。ハードルは低くてもOKなんですね。意識低い系ですよ。

               意味を回避する

そういえば、昨日紹介したワクサカソウヘイ『ふざける力』には「意味を求める」ことに対して、「そうじゃなくてもいいじゃん。」と軽く手を置いてくれていました。なぜなら意味を求めることは、疲れるからです。人は仕事や遊びや人間関係、細かいことを言えばその辺にあるベンチにもつい意味を求めちゃいますが、人が生きてること自体、実は意味なんてないと考えてもいいですね。うまい例えがぱっと見つかりませんが、サイコロを振って出た結果みたいなものかな。「なんでこの目がでるんや!?」って考えるのはオカシイですよね。

うーん...例えば、音楽が人の心を癒やすのは、音楽に意味がないからだと思います。疲れているときに、これじゃいかんと意味あることをやろうとして更に疲れてしまったという経験がありますが、そういうときって、気分転換しようとかける音楽にもなぜか意味を求めてしまっているもんですね。「☓☓を聴いて、詳しくなるぞ!」とか「このバンドはこの人とこのバンドに影響を受けていて、それはこの時代にこんなことがあったからだ、と調べてしまったり。「癒やされたいからこれかけよう。」とか「○○なときに聴きたいプレイリスト」とか。もっと、意味もなくぐちゃぐちゃに音をかけて踊るみたいなプリミティブなよろこびを発見できたらなと思います。ひどいウツのときには音楽が聴けなかったのですが、もともと音楽は能動的に聴くもんじゃないのかもしれません。

何が言いたかったかというと、ブログのネタや構成を考えてると、突然書けなくりそうだということです。だから3割でええやんって言いたいんですが、その言い方を研究してます。

BLのタイトルを競走馬の名前で選ぶ人

          別のレイヤーから世界を覗くいろいろな方法

昨日の記事で少し言及した、ワクサカソウヘイさんの本を図書館で借りてきて、遊び云々の部分を読み返したら、「二時間遊ぶのを二週間続けると世界が変わる」というのは、少し違っていました。彼は、二ヶ月必要説(十分説?)を述べています。のでその辺をもう少し、掘り下げます。

ワクサカは普段「遊び」というと、仕事するという土台があって、その息抜きとしての「遊び」があるけれども、普段すごしてる「構図」から脱するためにはもっと意識して「遊ぶ」ことが重要だと説きます。

土日を「息抜き」の時間として捉えていると、自然と遊ばないで休息にあてる土日も発生してきます。「今週末は寝だめしよう…」みたいな週、ありますよね。そこをぐっとこらえて、まずは一ヶ月、休日の日は意識して外に出て遊んでみてください。できれば「今まで興味があったけどなかなかできなかったこと」を念頭に置いて、様々な世界に顔をつっこんでみてください。(中略)で、その次に一ヶ月です。平日の仕事の終わりの時間も、すぐに職場から帰って寝るのではなく、たとえ一時間でもいいので、どこからそんでから帰ってみてください。がんばって、それを一ヶ月続けてみてください。もちろん、しんどかったら休んでも大丈夫です。

とにかく、「遊ぶ」ということをすべての最優先事項に置いて、計二ヶ月を過ごしてみてほしいのです。

「遊び」に連続性をもたせた結果、きっとあなたの観ている景色・世界は二ヶ月前とは変容しているはずです。

簡単に言うと、土台にある構図が、変わっているはずです。いままでは仕事が中心であったはずの生活が、「遊び」中心になっていると思います。二ヶ月前にはなかった様々な物や人との「出会い」があり、それがまた連綿と、あなたをさらなる「遊び」の世界へ誘っているはずです。

(ワクサカソウヘイ『ふざける力』より)

 ぼくの場合は、ここ2年くらいついつい引きこもりがちな日々が続いていたので、遊ぶのも人と連絡とるのもかなりの億劫さを持っていますが、元気なときはスケジュールをどんどんいれてバンバン人と合うタイプでした。情報や新しいアイデアの源泉のひとつは、(あくまでぼくは)人と合うことですが、それはやはり連続性があるという気はします。新しい場所・人との出会い→新しい興味→また新しい物・人との出会い→新しい興味...というように数珠つなぎができていた気がします。もちろんこれは今もソウかどうかはわからないですが、すくなくとも家でじっとインターネットや本と向きあっていたとしても、自分の興味や枠組み以上のことはなかなか検索しませんよね。

その点、人と会うあることは、がっかりしたり嫌な気分になることもありますが、それでも普段自分では考えないものや事に触れるという意味では、大変エキサイティングです。友人と(恋人とでも)遊ぶと、自分は行きたくないのに付き合って仕方なく行くということは多いかと思います。そこで思考をシャットアウトしてそっぽむくよりは、「へーこの人こんなとこ見てるんだ、面白い。」とハナホジって聞くぐらいのスタンスがいいと思います。

今日は京都からの友人と、神戸を歩いて餃子を食べて喫茶店に行ったのですが、例えば壁の色をかなり気にしていました。1人で行動していたら気づかずにスルーしていたところですね。この壁はこうやって色付けされて(ヤニとか)それが味になっていいんだと思っているとか、自分ではほんとどうでもよかったりしますが、自分を省みても案外細かい情報を無意識に入れて、実際は自分の分け方≒感覚で判断してると思い込んでることは多んじゃないかな。

「遊ぶ」ことと「人と会う」ことですね。なるべく自分が興味持ってないことに興味を持ってそうだったり、やっている人と話すのはしんどさもありますが、(話がチンプンカンプンだったら目も当てられない)全部を理解しようとするんじゃなくて、使えそうなところは使おうかなぐらいに考えて、おります。みんないろんな視座を持ってます。実験はまだまだ続きますよ。

帰る直前にぼくの働いている書店でお土産のBLコミックを選んだのですが、好きな競走馬の名前だということで友人は『STAY GOLD』を1,2買って帰っていました。ほんと、物やサービスの購入動機って、人それぞれで面白いなと思いました。あ、その本はぼくも買って読むつもりなので、みなさんは興味あればワクサカソウヘイさんの本を買って読んでみてください。

コアマガジンという老舗成年誌の出版社ですが、色眼鏡は外して、どうぞ。

新ロマンポルノについては、またそのうち。

 

 

ふざける力 (コア新書)

ふざける力 (コア新書)

 

 

仕事終わりのエロ映画

         YOU NEED TISSUES FOR YOUR ISSUES

大変ですね。いや、あの、えっと、遊びに行くことです。もっと言うなら毎日遊びに行くことです。ワクサカソウヘイさんの本を読んでいて、「仕事終わりに2時間遊びに行のを2週間続けると世界が変わる。」というようなことが書いてあったので、(どんな文章だったか、手元にないのでまたわかり次第書きます。)いま実験中です。

もうすぐ引っ越す予定なので、神戸でもっと遊んでいこうと思ったものの、何していいかわかんないですね。ひとり遊びとなると、映画行くか、カフェでお茶するか、買い物するか、街あるきといったところでしょうか。おひとり酒も昔はたまにしてましたが、喋る相手がいたほうがいいですね。ひとり小料理屋でお酒と食べ物をゆっくり楽しむって頃には、まだ熟してないような気がします。遊びを開発していくのもいいかもしれません。

さて、今日はロマンポルノを観に行きました。いま「日活ロマンポルノ」リブートプロジェクトと称して、ロマンポルノというジャンルで5人の監督が同レーベルで作品を公開しています。

ぼくは「ジムノペディに乱れる」が観たかったですが、時間的に断念。「風に濡れた女」を観て、これは戦いやなって思いました。野外でSEXでの戦い。

 


風に濡れた女

 

つづく

昨日観た映画の解釈を引きずる回

               言葉ではない会話

少し前、東京のビリケンギャラリーさんでやってた近藤ようこ展を観に行きました。(筆者は関西在住です。)まぁ、絵を観に行くだけに東京に行くなんて酔狂ですね。買えるかなと思ったけど、全部売り切れてました。

 

近藤さんのマンガは、昔お店やっていたときに書棚にあったのでその時(5年くらい前かな)から読んでいるけど、好きです。民族学的な興味から来るであろう、歴史モノと、揺れ動く男女の関係等をその辺にいそうな市井の人々の視点から描く日常短編を中心に描いているけど、ぼくは後者のほうが好きです。最近漱石の『夢十夜』をマンガ化したものを発表していましたけど、未読というか積読です笑。

 

同時期に刊行されてた『帰る場所』も買ってて今日読んでたんですけど、表題作がとてもよかったです。

主人公は中年サラリーマンで、出張の折に小学校の時に一時期住んでいた街に立ち寄ります。父親の都合で転校を繰り返していて、その街に住んでいるときに初めて”親友”と呼べる友達が2人できました。商店主の息子である2人は街で生まれ街で育ち、これからもその街で生きていくつもりでしたが、主人公はやがて父親の都合で引っ越しすることになります。夏祭りを最後の思い出に、引っ越して行った主人公ですが、帰ってきたその街で薬局を継いでいるかつての親友のひとりと出会います。が、名乗らずに挨拶して去っていきます。彼は自分のことを忘れたのかもしれないけど、「もうおれにも帰る場所があるんだから、と満足そうでした。

ぼくは、たとえ気づいていたとしても、親友も声かけなかったのかもしれないと思います。昨日観た「ラ・ラ・ランド」のラストシーンで2人が声をかけなかったように、それぞれのフィールドで元気でやっているなら、「んじゃ」って心でつぶやいてってことでええやないかということですね。わざわざ、語らないことがコミュニケーションになっていることがあるのだと思います。それが"いき"なのかも。(いきとは、交わりたいけど交われない諦めを表しているって九鬼周造が言ってたような。)

心の隙間の引っかかりを埋めるでも、洗うでもなく、そっと撫でて優しく刺激してくれるような小品集、切なくて愉しいです。おすすめです。展示では、一枚絵を観て線の繊細さと、密度の薄さが際立って、逆に多くの情報を伝えてくれる気がしました。

近藤ようこさん:twitter @suikyokitan

 

帰る場所 (ビームコミックス)

帰る場所 (ビームコミックス)

 

 

出会いと、出会い損ない

            ラ・ラ・ランドを観に行ってみる

春ですね。やや行動的になってきたので、映画を見に行こうと思って、母が観たい見たいと言っていた、「ラ・ラ・ランド」観に行ってきました。ネットでも話題になってるミュージカル映画であるものの、ぼくはこのジャンルの映画は殆ど見たことがないので、いわゆる初心者でも楽しめるか不安ではありました。

一言で言えば、よかったです。いろいろ小ネタやオマージュもあるみたいで、あんまりネタバレしたくないので詳しくは述べないですけど、「あの時ああなっていたら...、もしかしたらこうなったかも...、でもどっちでもたぶんよかったよね。」っていうことなのかなと思いました。人生は選択や分かれ道が本当に無数にあって、ぼくも日々迷うことだらけですが、どの道を選んでも結局それなりの苦労とそれなりのよろこびが待っているんだなと思えました。(笑うせえるすまんで優柔不断なサラリーマンが喪黒福造に諭されているのを思い出します。)

冒頭からいきなり歌って踊ってしまうのはワクワクすると同時に、理由なく泣けてきました。何がどうして涙腺を刺激するのか、感情をせき止めていたダムが水漏れしてるように、じんわり沁みてきました。

最後、ぼくはランキン・タクシーの「歌って踊って恋をして~♫」を思い浮かべてしまいます。「うーまれぇてー、ガッコいってー、はぁーたらいて、ボケて死んでっ」ってやつですね。(ランキン・タクシー/さよなら好きになったヒト)

いろいろあるでしょうよ。たといガタガタになったとしても、他人を傷つけたとしても、最後にはうまくいきそうな気が少しだけ、しました。

一度しかない人生だ! パーッといこうよ! パァーッと!

(ジャン/ふしぎの海のナディア