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ほぉっておいても大丈夫(仮)

風呂が沸くまでのあいだに書く何か

このブログのタイトル(仮)について(その2)

ほっておかれることへの意志

昨日の記事で、『城』の文章をやや強引に引用してみましたが、ここ一年くらい、ほっておかれたいという欲求をずっと感じていました。体調が思わしくないと、周りの人は心配してくれます。

 

例えば、家族。父親は喋ることがあまり得意でないのですが、よくぼくの心配をしてくれるとき「ご飯食べてるのか?」ということを言ってくれます。

毎回そのことを言われているので、いいかんげんうんざりしてしまいますが、心配してくれることは伝わってきます。それに対して、「別に食べているって。」とつっけんどんに答え、気持ちでは心配してくれていることをわかっていますが、なんとも言えない空気になっていました。父親父親で気持ちが行動についていかないようで、結局夕食をごちそうになって、無言で帰ってしまうことがよくありました。(ひどいですね。)

 

また、同棲していた彼女は、できるだけ一緒にご飯を食べようと言ってくれて、それは大変ありがたかったのですが、どうにも回復せず時間だけが経ってゆき、そのことがだんだん苦痛になっていました。しまいには、一緒にご飯を食べても仕方がないと思うようにさえなってしまいました。

「一緒に食事をする」という行為は単に栄養を摂取する意味以上に、多分にコミュニケーションの意義を含みます。調子のいいとき悪いとき、いつでもたいていご飯を食べますが、そこに意味をもたせようとすると、その場を楽しめないと、虚しくなってしまって、食事自体が苦痛になっていました。食べることを極端に制限していたこともあります。

ある日彼女に「ほっておいてほしい!」ときっぱり言ったのですが、彼女はほっておいてくれるようで、やはりほっておいてくれなくて、「食べものを食べない!」と言っているにも関わらず、何かくれようとしたり、それが余計に辛かったです。

うーん、なんだか昔の愚痴のようになってしまいました。すみません。

 

全く誰にも相手をされない自由さは、寂しさと隣り合わせだと思いますが、ぼくはやはり「ほおっておいて」ほしかった。

少し話が飛躍しますが、自律なんだと思います。「ほっとかれた状態」で一人でバランスを取れることが必要だと思います。人は一人の力では生きられませんが、逆に一人でしか生きられないし死ねないです。

一人で生きて、一人で死ぬ。

 全く誰にも相手をされたいわけではないけど、「ほっとかれて」自律して生きてゆくこと。それがパワーワードなのかなと思っています。

つづく。