ほぉっておいても大丈夫(仮)

風呂が沸くまでのあいだに書く何か

3割打者はすごい

       全力で走り続けると疲れるというアタリマエのこと

毎日全力で遊ぶというのをテーマに生きています。ん?いや、全力では、疲れてしまうので、3割くらいの力でできることを続けていくのがテーマかもしれません。とにかく、毎日どっかで休憩してます。”休憩”というとHifi Cafeさんを思い出しますねぇ。

昨日の神戸に遊びに来た友人がもうすぐ店を出すのですが、「(自分の技能の)3割くらいでできるメニューを出したい。」と言っていました。これは日々一生懸命に仕事や勉強を頑張っているとってはふざけたセリフかもしれませんが、ぼくはなんか得心してしまいました。10の力を持っているんだったら、そのポテンシャルを引き出すのが、人生の価値なんだという意見もあるかもしれません。山本有三の『路傍の石』なんか読むと、その方向性ですよね(はるか昔に図書館で借りた記憶しか.....。むしろ青木雄二ナニワ金融道』で、ある地上げ屋がコケて夜逃げし、ヤクザの下働きをしていて、今時分がいる場所は不相応だから臥薪嘗胆抜け出してやる的なノリで『路傍の石』の引用をときどき見返して、鼻息を荒くするシーンが思い出されます。)

ぼくは昔、毎日色んな所に出かけて交流して旅行も行ってお酒も飲んで、という時期がありました。仕事も遊びも全力で、というやつです。不器用なんです。ある本屋の店主が「おかくん全力で遊んのええわぁ!」と言われました。そうか、全力で遊んでるんだなって思って、さらにやる気を出しましたが、やがて疲れてきましたね。一度疲れてやめちゃうと、糸が切れたようにやる気をなくしてグダグダしてました。それで、それっきり...という縁もきっとたくさんあったでしょう。

「30歳超えて楽になった。」といろんな先輩から聞いてたので「30になると楽になるんかぁ、早く30になりたいぜ。」とか思ってましたが、実際は楽にならなかったです。むしろ苦しくなってました。でも、なんとなく思ったのは、楽になるんじゃなくて、楽にしていくもんじゃないかなって感じてます。3割の力で十分なんじゃないかって。ハードルは低くてもOKなんですね。意識低い系ですよ。

               意味を回避する

そういえば、昨日紹介したワクサカソウヘイ『ふざける力』には「意味を求める」ことに対して、「そうじゃなくてもいいじゃん。」と軽く手を置いてくれていました。なぜなら意味を求めることは、疲れるからです。人は仕事や遊びや人間関係、細かいことを言えばその辺にあるベンチにもつい意味を求めちゃいますが、人が生きてること自体、実は意味なんてないと考えてもいいですね。うまい例えがぱっと見つかりませんが、サイコロを振って出た結果みたいなものかな。「なんでこの目がでるんや!?」って考えるのはオカシイですよね。

うーん...例えば、音楽が人の心を癒やすのは、音楽に意味がないからだと思います。疲れているときに、これじゃいかんと意味あることをやろうとして更に疲れてしまったという経験がありますが、そういうときって、気分転換しようとかける音楽にもなぜか意味を求めてしまっているもんですね。「☓☓を聴いて、詳しくなるぞ!」とか「このバンドはこの人とこのバンドに影響を受けていて、それはこの時代にこんなことがあったからだ、と調べてしまったり。「癒やされたいからこれかけよう。」とか「○○なときに聴きたいプレイリスト」とか。もっと、意味もなくぐちゃぐちゃに音をかけて踊るみたいなプリミティブなよろこびを発見できたらなと思います。ひどいウツのときには音楽が聴けなかったのですが、もともと音楽は能動的に聴くもんじゃないのかもしれません。

何が言いたかったかというと、ブログのネタや構成を考えてると、突然書けなくりそうだということです。だから3割でええやんって言いたいんですが、その言い方を研究してます。